「社会人」という言葉はなんだか差別的

NHKスペシャルワーキングプアIII 解決への道」の感想(http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/workingpoor5.html)という記事を読みました。


読んで番組を見なかったことを後悔しました。記事を読むに番組のテーマには,ワーキングプアやフリーター,ニートの問題は経済の問題としてだけ考えるのではなく,社会との接点が失われ,人間の尊厳が失われるという問題があるのだということがわかりました。私自身がそこまで考えたことがなかったので,自分の社会を見る視点がひとつ増えた気がします。そういう意味で,上の記事を読んで本当に良かったと感じましたし,もしかしたら再放送があるのではとテレビ欄をマメに見るようになりました。
確かに仕事をするということは,お金のためだけではありません。そこで得られる充実感があって,他人から必要とされる感覚が持てて,それがあるから成長できるのだと思います。つまり仕事がないとか,ものすごい単純な作業しかできない仕事しかできない状況は,人間としての成長の機会が失われるわけで,それは人間の尊厳が失われることだと言えます。(と書いてみましたが,記事を読むまでは「人間の尊厳」という言葉の意味が,わからなかった…)


それで,ふと「社会人」という言葉について考えてみました。子ども→児童→生徒→学生→社会人とすすんでいくのが,大方の人たちが思い描く人生だと思います。フリーターやニートは社会人とは呼ばれませんよね。それは定職がある人を社会人と呼ぶからなのでしょう。つまり社会との接点がある人が社会人なのです。では,子どもや小中学生や高校生は社会と接点のない,非社会人なのでしょうか。その感覚は子どもを大人になりきれていない未熟な存在ととらえる,近代とか前近代的な価値観な気がします。


子どもたちに,「そんなことでは,将来,社会人になったときに困る」って言っちゃうことはあるでしょう。でも,本当は子どもも社会の一員だという自覚を持たせる方が重要な気がします。だから,子どもも大人もみんな社会人なわけで,仕事を持っている人だけを社会人と呼ぶのは間違ったことだと思います。