蛮社の獄で勘違い

江戸時代の終わり頃,幕末の歴史について少し考えてみたのでメモしておきます。

1837年,日本人漂流民の送還と通商を求めて江戸湾にはいったアメリカ船モリソン号を幕府軍が砲撃(モリソン号事件という)。この事件について,尚歯会の渡辺崋山高野長英らは,幕府の政策を批判したため,蛮社の獄とよばれる事件によって幕府に処罰さた。

というのが,蛮社の獄に関する私の知識でした。しかし,私のこの知識には勘違いがあったみたいです。

まず第1に,崋山や長英の批判は,「漂流民送還」というモリソン号の善意の行動に対して,無二念打払令によって機械的に幕府軍が砲撃して追い返すという政策を批判したものだと思っていました。しかし,崋山の『慎機論』,長英の『戊戌夢物語』で説いたのは,モリソン号がイギリスの船であるという間違った情報にもとづいて,「当時の最強国であるイギリス船を打ち払うのがいかに無謀か」という批判だったらしい。

モリソン号をイギリス船だと思っていたという話は,初めて知った。
イギリス船に対する攻撃によっておこるかもしれない最悪の事態として,後に中国でおこるアヘン戦争が想像される。崋山らの批判はその意味で的を得ているわけで,当時の国際情勢をきちんと把握していたことに驚きを感じる。

さらに,崋山は幕府の対外政策を公然と批判したわけではなく,でっち上げの罪をきせられたときに,公にするのをひかえていた『慎機論』を幕府に見つけられて処罰されたらしい。幕末に近づくにつれ,幕府を公然と批判する人々が増えてきたのだと思っていたので,崋山もその中のひとりだとばかり思っていたが,勘違いのようだ。


今まで1837年と言えば,モリソン号事件と大塩平八郎の乱という2つの出来事があって,大塩の乱で幕府を公然と批判する者があらわれたことに衝撃を受けた幕府が,幕政を批判する人々を弾圧しはじめた中で象徴的な出来事だったのが蛮社の獄だと思っていた。しかし,新たに知った知識から考えるに,そんなことではなさそうだ。崋山は幕府の海防政策にも助言するほど幕政への影響力があったみたいだが,保守派からは嫌がられることもあったようで,結局は保守派の画策した蛮社の獄で幕政への影響力を失ってしまっている。これはどちらかと言えば,派閥争いというつまらない政争によって,優秀な人材が失われる悲劇として考えた方が良いのかもしれない。