平安時代初期なぜ神が仏道修行に励む姿が表現されたのか
高校の日本史Bの教科書では,平安時代初期の文化である弘仁・貞観文化のところで,僧形八幡神像という神像彫刻があげられています。
これはいったい何を表している神像彫刻なのでしょう?川尻秋生氏は『平安遷都』の中で以下のように述べています。
「古来広く信仰されてきた八幡神が僧侶の姿をとる僧形八幡神像をはじめ,神像が修行中の姿をあらわす菩薩形をとっているのも,苦悩を克服しようとする修行者の姿」(p65)
この時期の神は苦しんでいたのですね。神が自分の力では克服できず,仏に頼るほどの苦悩とは何なのでしょう?普段使っている,山川出版社の『詳説日本史改訂版』(2018年)には「8世紀頃から,神社の境内に神宮寺を建てたり,寺院の境内に守護神を鎮守としてまつり,神前で読経する神仏習合の風潮がみられた」(p66)とあり,僧形八幡神像が神仏習合の風潮の中でつくられたことはわかりますが,なぜ八幡神が苦悩していたのかはわかりません。
そこで,山川出版社のもう一つの日本史Bの教科書『新日本史改訂版』(2017年)を見てみます。そこには,「神祇信仰やそれを支えた豪族層のあいだにも仏教が入り込み,神社の境内に神宮寺を建てたり,神前で読経するなど,神仏習合の動きが強まっていった」(p63)とあり,神祇信仰を支えた豪族層のあいだに仏教が入り込んだことで神仏習合が強まったということが述べられています。このことが書かれていると,少し創造力をはたらかせやすくなるのではないでしょうか。
律令制が始まった当時,郡司(もと国造などの地方豪族が任命される)のもつ伝統的な支配力に依存して人民支配を行っていました。しかし,平安時代になると,農村では税負担を逃れるために,浮浪・逃亡,偽籍が増えてきます。農村では貧富の差の拡大も見られます。大規模な土地経営をおこなう有力農民は,貧窮農民に米を私出挙で貸し出し,税の納入を肩代わりして勢いを強めます。新興の有力農民の登場は,郡司の伝統的な権力を衰退させることになりました。これまで地域を神を祀り,地域の人びとを指導していた伝統的な地方豪族の衰退,その苦悩は彼らが祀っていた神の苦悩につながったのでしょう。地方豪族の影響力の低下は,彼らが祀っていた神の影響力の低下なのです。それを克服するために神は,仏のもつ力に頼った。それが僧形八幡神像の姿に現れているのです。
1冊の教科書だけでなく,複数の教科書を見ていくことで,浮かんだ疑問が解き明かされることがあります。『詳説日本史』だけでなく,『新日本史』や実教出版の『日本史B』も見ておくべきだと言われますが,読み比べてみると面白いですね。
参考文献
(シリーズ日本古代史⑤,岩波新書,2015年9月)