情報は変わらない

目から鱗が落ちるというのは、こういうことを言うのだろうか。北海道高等学校教育研究大会がはじまり、第1日目の今日は、養老孟司氏の講演を聞いた。医学とか生物学とか文型人間の私にはわからない専門用語も多かったが、ひじょうにおもしろい話だった。

私は、情報について今まで何となく「移り変わる情報」とか「変化の激しい情報化社会」とか、情報というのは常に変化するものだと思っていた。しかし、養老氏は「情報は完全に固定しているもの」と、私にとっては今までの考えとはまったく違う話をしてくれた。その例として、NHKの朝7時のニュースを録画して50年後に見ても、まったく同じ映像がブラウン管からは流れてくるのである。一度録画・録音された情報は変わることはない。その話を聞いたときは、「そんなこと言ったって、経年変化で、映像や音の質は衰えていくのだから、情報は質的な変化をしていくじゃん」と思ったが、よく考えてみると質が変化するのは、テープなどの記録媒体であって、伝えられた事実は変化しないのだ。そして、人間が「情報は常に変化する」と考えるのは、人間の脳がテープと同じで年が経つに連れて衰えるものだからなのである。人間の脳は記憶力が弱いのだ。
鴨長明の「ゆく川の流れは絶えずして常にもとの水にあらず・・・」というのは、まさにそのことを表している。川という情報は変化しないが、流れる水という実体は常に変化する。長明はそのあとに、人の住みかは変化しないが、人間の心は移ろうものだと述べている。人間は常に変わっているのである。

常に変わるものだから、普遍性を求めて、変わらないものを作り出したがる。エジプトのピラミッドは、建造物自体が変わらないものの象徴で、東西南北の方角を正確に指しているのは、方位が時間とともに変化しないから、坑道が掘られているのは、太陽エネルギーや月エネルギーを入れるためではなく、位置を変えなかった北極星を指すためなのだそうだ。そして古代エジプトの人々は、人間もミイラにして変わらぬものにしようとした。

人間は変化する存在だから、変わらないものを求める。学校の先生も生徒には、変わってほしくない。変化はこわいものだから。勉強は新しいことを知ることで、それによって変わるはずなのに、変わらないものを求めるのだから矛盾である。今回の講演を聞いて、新たな発見があったのだから、私の考え方は少しは変わると思う。今まで、自分が何となく常識だと考えていたことを、くつがえすような意見を知るのは、とても大きな喜びである。