『中世の罪と罰』を読んでいます。そのなかの、勝俣鎮夫「ミヽヲキリ、ハナヲソグ」について。
「ミヽヲキリ、ハナヲソグ」の言葉を見た時に何か思い出しましたか?
この言葉で「お!」と思った人は、高校日本史の授業で扱われた史料の記憶が残っているのだと思います。史料の名前は「紀伊国阿氐河荘民の訴状(本文では「阿氐河庄上村百姓等言上状」としている)」。鎌倉時代の地頭の百性に対する非法行為を知るうえで最適の史料であり、そのため高校の授業では必ずと言っていいほど取り上げられるネタではないかと思います。
史料のなかで百姓は地頭の非法について次のように訴えます。
地頭が上京や作業があるといって課す人夫役が過重であること。その過重負担があるにも関わらず荘園の人々が荘園領主に課役として納める材木を伐り出しに山へ入ると、地頭はこれらの人々を負い戻して荘園内の逃散百姓の耕作が放棄されたままの田畠に麦を蒔くことを命じてきたこと、そしてこの地頭の命令に従わない場合には、地頭が妻子らの「ミヽヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ」と言って荘園の人々を責めたことが述べられています。
耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切るというリアルな表現にびっくりした人もいたのではないでしょうか。
まず最初に、なぜ地頭は麦を蒔くよう命令した人々でなく、妻子の耳や鼻をそぐとしたのでしょう。このことについて著者は、命令された人々の妻子ではなく、耕作を放棄して田畠を残して逃散した百姓が家に残した妻子を呵責の対象としたと考えます。
つまり、地頭は逃散百姓が残した妻子の耳や鼻をそぐと脅すことで、荘園の人々の仲間意識をたてに耕作を強制しようと考えたのです。
この地頭の「ミヽヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ」という行為を、逃亡した百姓の妻子に対するものに限定して考えれば、地頭は領内の犯罪行為に対しておこなおうとした処罰の一つに過ぎないと考えることもできます。
では、耳や鼻をそぐという肉刑(身体刑)はいつ頃からあったものなのでしょう。
中国では儒教の経典に五刑という刑罰があり、その中には劓(はなきり)という刑がありました。殷墟から出土した甲骨文にもみられるとされているので、その起源はかなり古いといえるでしょう。
しかし、紀元前167年に漢の文帝がこの刑罰を廃止します。中国ではその後、律令で新たに五刑が定められますが、そのなかには「はなきり」はありません。そして、日本はこの律令制度を導入していますから、「はなきり」の無い五刑を採用しています。ですから、鼻をそぐという刑罰は外から持ち込まれたものではないと考えられます。
では、いつ頃、日本で耳や鼻をそぐような刑が生まれたのでしょうか。
鎌倉幕府が制定した御成敗式目の第十五条では、「謀書の罪科」に対する刑罰として、侍は所領没収、所領のないものは遠流、一般庶民は「火印をその面に捺さるべきものなり」と定めています。「火印」は焼印を捺す刑罰ですから、鼻そぎと同じ身体刑の一種です。公家法にも謀書の規定があるそうですが、内容的にはその影響を全く受けていないことから、御成敗式目の第十五条は独自の立法だと考えられます。つまり、この条文は過去の法を参考にして作成したものではなく、御成敗式目を制定した時に新たに作ったとも考えにくいので、この刑罰は武家社会のなんらかの先例、慣習として存在していた刑罰に基づいて採用されたものと考えられるのです。
ところで、焼印をつけたり、耳や鼻をそぐなどの外見を変える刑罰はなぜおこなわれたのでしょうか。
すぐに考えられるのは、犯罪者と一般の人々を区別する目的でおこなわれたということでしょうが、筆者は別の目的もあると指摘します。
たしかにこれらの刑が予防主義的見地から 行われたことも事実であるが、私にはむしろこれらの刑の本質は、その軽重を別にするならば、受刑者本人の外貌を変えてしまう苦痛そのものにあったと思われる。すなわち、これらの刑は本来的には受刑者を一般の人々と異った不吉な容姿に変えてしまう刑、人間でありながら、姿形を人間でなくする、いわゆる「異形」にすることに大きな比重がかけられた刑であったと思われる。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、髻(もとどり)を切られた貴族が激しくショックを受けるシーンがありました。耳や鼻をそぐというのは、精神的な苦痛まで味わわせる刑罰だったのです。
では、ここまでの苦痛を与える刑罰はどのような罪に対応したものなのでしょうか。筆者は次のように考えます。
結論的にいえば、私はひろい意味での「詐欺罪」(假事の罪)、「あざむきの罪」に対応して存在するという特徴をもつと考える。もちろん厳密にすべてがこの「あざむきの罪」に対応するものとは把握しえないが、この刑を科する観念として、「天罰」を加える意識が流れ、それを顔面に刻印するという考え方が基調として存在し、この罰がとくにこの罪にふさわしいものと考えら れていたように思われる。そして、やがてこれは犯罪をおかしたものに「しるし」をつける意味にかわっていったものと思われるのである。
盗みをしたら、指を切られる刑。他人を欺いたら、一生元に戻らない外見の変更を強いられ精神的にも苦しめられる刑が与えられる。そのような対応関係だったということでしょうか。
今回は『中世の罪と罰』の中から、勝俣鎮夫の「ミヽヲキリ、ハナヲソグ」の読書記録でした。ほかにも「死骸敵対」なんていうタイトルだけで、読みたくなるようなものもあります。
是非とも読んでみてください。